自分の終い方 20231107

※死を連想させる内容だから、メンタル弱ってる人は読まないでね。

 

Twitterで誰かの投稿をたまたま見て、『山と獣と肉と皮』という本が気になり、図書館で読んだ。

“読んだ”と言っても、実はまだ2/3ぐらいで、今日は時間切れになったので、また明後日図書館が空いたら読みに行く。

全部読んでないのに何かを書くのはあんまりよろしくないが、今日感じた気持ちを今日書いておかないと、明日には気持ちが無くなっているかもしれないと思ったので、書いておく。

この本は、長崎で猪などを狩猟して食べる猟師さんを取材した本で、

「命を殺すこと、料理すること、食べること、教えること、自分が生きること、死ぬこと、生と死が自然の中で循環すること」

などが書かれている。

自分と本との関係

自分は、北海道の山奥の田舎で育っていて、朝起きたら庭に鹿がいたり、中学校の教室に蛇が出たりというのが普通の町で育った。

ヒグマが街に出て、集団下校になったり、地域の猟師のおじいちゃんが対処したりするようなことが、当たり前に起きていた。

「動物を殺して、その肉を食べる」という行為のショッキング性や考えさせられることも、ドキュメンタリー映画などで知っていたので、そこまで衝撃は受けていない。

(それでも、生々しい狩猟の描写は息を呑むものがあり、誰が読んでも損はない本だと思う)

著者は、殺した猪を料理するときに、「自分が死ぬときのこと」を考える。

自分が、気になったのは、その部分だ。

自分の死に方 – 動物に食われる

ここに書くことは、自分としては、特に暗い話しというわけではなく、ポップな話題として考えている。

自分は、もう30代も半ばに差し掛かるが、結婚していないし、これからもする気はない。

理由は、同棲もしたことがあるが、人と一緒に暮らすということが心底苦手だということが分かったからだ。

そうなると、死ぬ時はまあ独りでその辺で野垂れ死ぬわけだが、「生き物」という観点で見たら、別にそれは至極自然なことだ。

とはいえ、これまで生き物を殺して、その命を食べ続けて生きてきたのだから、死ぬ時ぐらい、この体を別の生き物にあげて死んでいきたいという気持ちが、前からある。

手塚治虫が描く「ブッダ」に「アッサジ」という人が出てくるが、自分の死期を予期していて、最後はお腹が空いた狼の親子に、生きたまま自分の体をあげるのだ。

さすがに、生きたまま食われるのはしんどいので絶対嫌だが、死んだ後、自分の体を動物が食べてくれて、その命の血肉となってくれたらいいなあと思う。

でも、実際はそれは難しい。

野生動物が”人間の味”を覚えてしまうと、人間を捕食のために襲うようになってしまうかもしれないからだ。

さすがに、地域の人たちを危険に晒してまではやりたくない。

自分の死に方 – 臓器提供

じゃあ、死んだ後に、すぐに使える臓器を取り出してもらって、ドナーを待っている人たちに臓器提供するのはどうだろうか。

それも、可能であればそうしてほしい。

でも、臓器提供できるのは、部位によるが年齢制限があるっぽい。

もし、70歳とか、80歳とか、それ以上とかまで生きながらえたら、難しいかもしれない。

それでも、年齢制限がない臓器もあるっぽいので、それは使える人がいるなら使って欲しい。

自分の死に方 – 土葬

それ以外の身体は、できればそのまま自然に還りたい。

ただ土に埋めて、分解者たちに分解してもらって、その命が順繰りするループで活用してもらって、いつの間にか跡形もなく分解されて自然と融合する。

しかし、日本は基本的に土葬は難しいっぽい。

そうなると、まあもし仮にたまたま看取ってくれる人がいたら、火葬してもらって、骨は自分の故郷の北海道の山に散骨して欲しい。

自分の死に方 – 土に還る家

ただ、たまたま看取ってくれる人がいなかったら、まあ独りで死ぬことになるわけだけど、そこで賃貸物件とかで死ぬのはできればしたくない。

なので、今日本を読んでて思いついただけだけど、もうそろそろ死ぬな〜という感じになったら、故郷に小屋をたてて、そこで死ぬまでまったり生きたらいいかなと思う。

自分は、北海道の田舎に住んでいたのだが、大学生の頃に父が癌で亡くなり、子供もみんな進学で北海道を離れていたので、元々北海道の人じゃない母も、東京に引っ越してきた。

そのときに、実家の木造の建物はもう築60年以上になってて、雪で倒壊する恐れがあったので、取り壊してきたのだ。

だが、実はそこの土地はまだ母の名義で取っていて、所有している状態である。

(超過疎地で、市場価値は完全に0円なので、固定資産税だけを取られている状態)

その土地は、自分が本当に大好きだった場所で、家族の思い出が詰まっていて、大好きだったペットのハムスターや兎、猫たちも庭に埋まっている土地。

生まれた時から一緒にいた、桜の木や、梨の木がいるところ。

自分も、死ぬ時はそこの自然に抱かれて死にたいな〜という感じがするのだ。

北海道の、あの場所が、自分が最後に還る場所という気がする。

なので、最後はそこに小屋を立てて暮らして、自然に時が来たらその中で死んで、土に還る家にしておく。

完全に自然からの素材のみで作り、「百年後に土に還る家」として作っているメーカーさんがあるみたいだ。

地元の町は、「東京23区と同じぐらいの広大な面積に、数千人しか住んでおらず、面積の9割が人が踏み入ったことのない山林」という、ウルトラスーパー田舎である。

しかも、超過疎化が進んでいて、自分がいたときから人口は半分になってるし、唯一の高校は1学年80人いたのが、今では20人もいないらしい。

30年後には、「ほぼ森」になっていると思われる。

そんなところなので、まあ小屋で自然に死んで、百年じっくりかけて土に還っても、誰も文句言わないだろう。

ほぼ森みたいな場所だからね。

仮に誰かが見つけた時のために、全く不幸に死んでないよ!!楽しく暮らして天寿を全うしたよ!!化けて出たりしないからこの土地は使いたかったら自由に使って!!って張り紙をしておこう。

 

ま、明日になったら気が変わってるかもしれないし、いつ死ぬかもわからんから、特にこんなこと考える必要もないんだけどね。

というわけで、ナウでポップな与太話でした。

2 COMMENTS

エゾリス

はじめまして。Twitterで偶然目に止まり拝読しました。私は東京で働いていましたが旅行で訪れた北海道が気に入り現在は札幌に住んでいます。北海道の土に還りたいと思うくらい、自分は北海道にルーツがあるのでは、と思っています。
そして、昔から、お金使い切って死にたいな〜と思っているので、そらちさんの考えに共感しています。現在は札幌で働いていますが、近々休職か退職すると思います。
長々と書いてしまいましたが、お互い残りの人生楽しみましょう!

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そらち

エゾリスさん
はじめまして。コメント頂きとても嬉しいです。
東京から北海道に移住されたのですね。環境がとても変わって、大きな決断だったのだとお察しします。勇気が素晴らしいと思います。
北海道を気に入っていただき、とても嬉しいです。ちょっとスピリチュアルな話しになってしまいますが、ご先祖なのか、過去生なのか、はたまた別の何かか、エゾリスさんはきっと北海道と何かしらの関係があるのだと思います。
旅行で訪れて、実際に住むほどのインスピレーションを受けるというのは、それぐらいの関係があるのかなと感じました。
考え方についても共感していただきありがとうございます。休職・退職して、一度自分の方向性を整えてみる、というのは、自分も経験してとてもよかったと思いました。
いつまで生きるか分からないですが、生きているその刹那は楽しんでいきましょう!

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