そろそろ休職して2ヶ月になる。
通院して主治医と話すときも、休職を延長するかとか、少しそういう話が出ている。
自分は「気にしい」なので、「もっと休職したら部署の人にうんざりされないか」「毎週連絡している上司も呆れないか」「職場のデスクを1つ占領したまま休んでて、席替えのときなどに誰かにやってもらって申し訳ない」など、いろいろ考えてしまう。
これは、ナチュラルな自分の感情で出てくる思考。
でも、それは間違った思考の方向だと、”理屈”で理解できる。
会社の人間は会社じゃない。
ただの雇われ社員だ。
うちの会社は個人の持ち株会社じゃないので、従業員どころか、社長も役員も、会社の株を持っていない。
つまり、社長も含め全員が、「誰も会社を1%も保有していないただの雇われ社員」なのだ。
なので、いずれみんな会社辞めたり、転職したり、定年退職すれば、全くこの会社とは関係ない人間になるのだ。
職場の人間とも、プライベートで仲良い人以外は、もう一生会わないだろう。
それは、自分もそうだし、今職場にいる人たち同士も、全員そうなのだ。
だから、「職場の人にこう思われたらどうしよう・・」という観点で、進退を決めることはしてはいけない。
会社を作った人間はもういないので、誰がどうなったって、みんな自分が辞めたらもうどうでもいいこと。
どうせみんないつかは辞めるんだから気にしなくていい。
不当なやり方じゃない限り、正当に用意された制度は使えばいい。
会社の作りが悪いから鬱になった。
会社は従業員の人生を負っている。
正しいロジックは、「会社の仕事の仕組みが悪くて激務で病気になった→病気が治るまでは休む」だ。
「病気になったから休んでいる」ので、「病気が治るまで休む」んだ。
それが正しい。
どう考えても、薬なしで1時間も寝れず、午前中はぐったりしてあまり動けない今の自分は、うつが治ったとは思えない。
主治医も、「休職延長した方がいいんじゃないですか?」と言ってくれている。
従業員は会社に対して、「決められた時間出社して、命令された業務を遂行する義務(責任)」がある。
これは当たり前。
では、会社の従業員に対する責任はどうか。
会社は、「従業員の人生を背負っている責任」があると思う。
もっといえば、「従業員の命を背負っている責任」がある。
それは、「従業員が生活を給料に依存しているから」というのが直接的な理由だが、もっと本質的な理由があると思う。
その理由とは、「従業員の人生の時間をその会社に拘束して消費することで、従業員のあらゆる可能性を犠牲にして、会社は労働力を得ている。だから、会社は従業員の人生・命に対して保証する義務がある。」ということだ。
従業員は、その会社で週5日拘束されることで、ほとんど自由時間がなくなる。
そして、自分の会社は「副業も禁止している」。
そうすると、自ずと従業員は、「その会社の仕事しかできない人」になっていく。
この傾向は、「勤続年数が長くなり、会社にとって重要な人物になるほど顕著」となる。
つまり、長く会社に尽くすほど、他では働けない人間になるのだ。
それなのに、会社の仕事を頑張ってうつになったら、「じゃあゴミだね。バイバイ。」でいいはずがないのだ。
それだったら、「人生を捧げさせる正社員」ではなく、「アウトプットを捧げさせる業務委託」でメンバーを構成すべきなのだ。
“正社員を雇う”ということは、”雇っている期間分の従業員の人生の責任を負う”ということなのだ。
自分は、もちろん給料という対価を毎月受け取っていたが、9年間という人生を今の会社に捧げて、9年分の他の可能性を犠牲にしたのだ。
「労働力」を提供していただけではなく、「人生の一部」を提供していたのだ。
だから、会社は「提供された人生分、責任を負う」必要があると思うのだ。
だから、「働いた期間で、会社が原因で病気になったんだから、その病気が治るまではお金もらいながら休んでいい」のだ。
“図々しくなる”ことが、うつになる”繊細メンタル”の真逆のマインドであり、そっちを目指すべきなのだ。
「うつになった原因のメンタル構造のために、うつを治す期間まで自分で減らしてしまう」という悲しいことになってしまってはいけない。
ここでマインドを転換して、正当な権利の範囲で、”図々しく”、”自分のため”に生きることが、メンタルの健康を保つ考え方だろうなあ。