ペンキ画家のshogenさんの言葉を聞いて、今日思ったこと。
1日1回、空を見上げる。
心の余裕。
普段は夜に外に出ないけど、夜の井の頭公園を散歩してみる。
秋の気持ちの良い空気。
清々しい空気をめいっぱい吸って、吐く。
精神的な豊かさ。
空を見上げる。
少しかけた月と、グラデーションがかった雲。
木々が静か。
ああ、幸せだなあと思った。
「精神的な豊かさ=幸せ」なんだなあとふと思う。
今この瞬間を味わう。
そうすると、どんな時間でも味がする。
夜を歩くこの時間も、いろんな空気で、いろんな音がして、いろんな生き物がいる。
生き方を定義しても、今何をすればよいのだろう。
それが、「この瞬間を味わう」ことかなと思った。
そうすると、なんだかとても充足する感じがある。
充実感を感じる。
なんだかいいな、って感じがする。
日本に生きる僕らは、常に効率を求めて生きてしまう。
自分も「効率の鬼」というぐらい効率厨だ。
時間を少しでも無駄にしないように、何か利益を生むように、スキルを上げるように、せかせかして生きてしまう。
それによって物質的な豊かさは得てきた。
でも、そこに心の豊かさがあったかというと、あんまりなかったかもしれない。
その時その時を味わって生きるぐらいのペースで生きると、物質的な豊かさからは離れる。
たくさんお金を稼ぐためには、効率を上げて、スキルを高めて、プレッシャーの高い場所で、たくさん働かなければならない。
そうすると、「精神的に豊かな生活」は「お金を最小限にする質素な生活」に裏付けられるということになる。
時代が変わったからなのかな。
「物質的な豊かさ」より「精神的な豊かさ」に幸せを感じるようになった自分がいる。
そういう人がこれから増えていくんじゃないだろうか。
そんな気がする。
自分がいて、他人がいる。
その他人をどうみるか。
道を歩いていてすれ違う人。
お店で接客してくれる人。
仕事で一緒になる人。
飲みにいく友達。
その人たちを、「血の繋がっていない家族」と考えてみる。
そうすると、なんだか自分の心に色が戻るような感じがする。
なんとしても道を譲らないおばちゃんは、もしその人が自分の母親だったら?と思ってみる。
そしたら、体を労わって優しく出来る気がする。
電車でイライラしているサラリーマンのおっちゃんは、その人が自分の父親だったら?と考えてみる。
そしたら、日々仕事頑張って、本当にお疲れ様ですって気がしてくる。
街でタバコ吸ってる兄ちゃんや、外で飲んだお酒のゴミなどを放置していく若者も、自分の弟や妹だったら?と考えてみる。
そしたら、そうしないといけないほど心に余裕がなくて、幸せじゃないんだな、かわいそうだなって気がしてくる。
そうしてみると、心がなんだか充足するような気がする。
ふんわりと幸せな心持ちになるような気がする。
そして、この心持ちでいられれば、死ぬまでずっと幸せでいられるだろうなという確信を感じる。
人からリソースを奪うようにずっと不幸せなまま長く生きるか、人にリソースを与えて短く生きることになってもその間ずっと幸せを感じて生きるか。
どっちが豊かだろうか。
つい、ないものを見てしまう。
あれが出来ない、あれを持ってない、あれを成し遂げられてない。
でも、実は自分はたくさんもっている。
寒さを凌げる素晴らしい服がある。
ふかふかで自分を包んでくれる布団がある。
毎日スーパーで数百円ですごい美味しいものを買って食べられる。
夜に部屋を照らす灯りがある。
これを書いている、人類の歴史で最高に高性能なパソコンがある。
戦争のない平和な街に住んでいる。
平穏な日々を過ごすことができる。
心から会いたいと思える友人たちがいる。
父は亡くなっているけど、母と兄妹がいる。
簡単な仕事ならなんでもできるであろう能力もある。
やろうと思えばエンジニアの仕事をどこでもできるであろう能力もある。
キャンプの知識がある。
登山の知識がある。
アニメや映画などの知識がある。
自分なりに美味しい料理も作れる。
炊飯器を使わすにご飯を炊くことができる。
風を感じることができる。
モノの声を聞くことができる。
たくさんもってる。
たくさんある。
夜の公園を歩いていて、適当に着ていたヒートテックの超極暖と、ユニクロのジーンズが、自分を暖かく守っていてくれて、「こんな素晴らしい服をもっている自分はなんて幸せなんだろう」と思った。
過去、人類の歴史を紐解いてみても、こんなに素晴らしい服はなかっただろう。
でも、この気持ちも明日にはまた消えてしまう。
わからなくなってしまう。
だから、今日の気持ちを記しておこうと思った。
「こう生きたい」「こう生きよう」という、生き方。
自分で決めた決まりごと。
理屈上の生き方。
これを自分はSpirit Codeと呼んでいる。
あくまでそれはプログラムコードのような、宗教の教典のような、真理・体系を記した、ただの「文」であるということで、「Code」と読んでる。
そのCodeを実践する「自分」はまた別である。
いくら崇高な生き方のCodeを定義しても、それを実践できるかどうかはまた別の話である。
日々、忙しいことに飲み込まれて、いつのまにかそんなことは忘れていて、いつもの自分に戻ってしまう。
「常にCodeを実践できている状態」が理想だが、それは難しい。
バスケットボールはHabit Sports(習慣のスポーツ)と呼ばれるが、それと同じように、何も考えなくてもそれができるレベルまで、自分に染み込ませていかなければならない。
Codeの通りやろうと思って、少しできるけど、できなくなって、またやろうと思って、少しできるけど、できなくなって、それを繰り返して、自分に少しずつ少しずつ浸透させていく。
でも、一生かけても浸透しきる気がしないほど、いつの間にか実践できなくなっている。
なるだけ思い出して、実践していくしかないのだろうか。
日日是好日。
明日は何を思って生きているだろうか。